なぜ地方公務員になったのか
1 将来は何になりたいのか
毎年1月頃になると、自分が大学3年生・4年生の時に就職に苦悩していたことを思い出します。当時は公務員になるのか民間企業に就職するのか非常に悩んでいました。
初めて持った将来の夢は宇宙飛行士でしたが、それは単に宇宙が好きだったためです。その後、小学校高学年になると、課題図書で読んだ杉原千畝さんの話に感銘を受け、外交官引いては公務員という仕事に興味を持つようになりました。
その思いを持ちながら大学に入りましたが、公務員になるのか否かの意思は揺らいでいました。大学2年生でインターンシップに行き、様々な民間企業の職場に行くと、それも少し面白そうだなと思い始めていました。その中でもIT分野に将来性を感じた私は、IT分野について研究できるゼミに大学3年生の時に入りました。
2 民間企業か公務員か
ゼミでの研究は刺激的でした。私はIT技術が様々な分野で革命を起こしていることに興味を持ち、大学3年生の時にはビジネスコンテストに出場し、他大学の先生や民間企業に協力を得ながらアプリを開発するなど精力的に活動しました。しかし、自分で起業するというよりはITインフラ企業に中で変革を起こせる働きをしたいたいと思っていました。一方で、内閣府の国際交流事業にIT分野の面で関わる機会があり、そこで日本や各国の公務員と話をすると、行政としてのIT分野における社会変革にも興味が出てきました。
公務員試験は大学4年生から始まることを受け、私は先に民間企業をいくつか就職活動してみることにしました。NTTや楽天など様々な大手企業を受け分かったことは、彼らは変革を起こしているが、そこには法整備など国のバックアップがなければなし得ないものであるということでした。いわゆる内々定までいただいた企業もありましたが、将来公務員にもなりたい旨を相手型に告げると、「是非そちらの分野で頑張って欲しい」と励みの言葉をいただいたこともあり、私は国家公務員を目指すようになりました。
3 公務員試験の挫折と新たな光
しかし勉強し始めが遅かった私に待ち受けていた現実は甘くなく、国家公務員試験は軒並み不合格でした。いよいよ卒業が待ち受ける中、周りは就職先を見つけている中、引き続き公務員を目指すことにしましたが、勉強ばかりでは折角の時間が勿体無い
と感じ、時間的に余裕がある派遣型で民間企業に勤められないかと考えました。
私が派遣されたのは都内の大学附属歯科病院でした。そこの総務係として働き始めた私は、勉強の傍で日々色々なところから送られてくるメールや郵送書類の処理を主に行っていました。そこで知ったことは、大学病院のような大きな施設が関わる行政は、国よりも特別区など地方自治体が意外と多いことでした。地方公務員は考えていなかった私でしたが、地方自治体はどのような仕事をしているのか興味が出始め色々と調べることにしました。しかし、都道府県など広域自治体や特別区といった特別地方自治体、市区町村といった基礎自治体を見てみましたが、どうも将来の発展性を感じられず、国から与えられたルーティンワークを日々こなしているのように感じられました。
4 政令指定都市としての地方公務員
そのような中、様々な革新的取組を行う政令指定都市に惹かれました。それと同時に、転勤族であった私の両親が、「もし転勤がなくなれば〇〇市が暮らしやすく、定住したかった」と言っていたことを思い出し、その市が政令指定都市であることを知りました。「ITで社会に変革を起こすのは国家公務員として省庁で働かないといけないと思っていたが、もしかすると政令指定都市であれば、何のしがらみもなく自分が思うような取組みができるかもしれない」と思い、そこからは地方公務員試験の勉強に焦点を当て、縁あって合格し採用されることとなりました。
5 将来どんな人間になりたいのか
実は、地方公務員試験に合格した時、私は派遣先の大学病院でもキャリアを積み、新たに病院長秘書の仕事もするようになっていました。仕事ぶりは散々であったと思いますが、病院長は私のことを評価してくれ、「派遣ではなく正社員としてどうか」という話もいただいておりました。そのような中、地方公務員になりたい夢と、その試験に合格したことを病院長に伝えると、病院長は大変喜んで「公務員は私に向いていると思う、是非頑張ってまた別の形で一緒に仕事をしよう」と言葉をかけていただき、豪華な退職パーティーまで用意してもらいました。
何がきっかけで将来どうなるかは分かりませんが、私が信念に持っていたのは「自分は将来何がしたいか」でした。「折角の人生であれば、何か名前を残せるようなことがしたい」という思いの元、いつ何時も、社会を変えていくような人になることを夢見て、宇宙飛行士や外交官、IT企業や国家公務員と職種は変われど、その軸はブレずに持っていました。
職業はそんな自分になるための手段やきっかけに過ぎません。大切なことは自分の信念であり、そのことを忘れずに今も地方公務員として働き続けています。次回は、そんな地方公務員の仕事を紹介したいと思います。
未来への抱負
5 未来への抱負
「私は器用貧乏ではなく、周囲のサポートを得られる恵まれた人間なだけだ」と気づいた時、今までの仕事に対するモチベーションが、「出世して納得できる仕事をする」から「今まで支えてくれていた周囲へ恩返しできるような仕事をする」ことに変わりました。その変化と同時に思い出したことは母親の言葉でした。私の父親は転勤族で、私が物心付く前は日本各地を家族で転々としていました。沢山の場所で生活をしてきた中、母親が「ここなら借家でなくて持家で長く住みたい」と思い、実際に家を購入した場所は正に私が今働いている市であると、採用試験の合格通知を受け取ったその日に聞かされました。
その時は「何か縁があるのかもね」程度で聞いていましたが、この時は縁以上の何か使命感のようなものを感じました。初めての部署で経験した「市への魅力を知りたい気持ち」、そして精神的に追い込まれた時に気づいた「周囲のサポートとそれに対する恩返しの気持ち」と合わさった時、私は自然と「もっと人間として成長し、周囲が私に期待しサポートしてよかったと思えるような立派な仕事をしたい」と思うようになりました。これは私の永遠の抱負であると感じています。
そして、その抱負を持った時に大学院で政策研究をする機会をいただき、今に至るのです。もちろん、研究内容は「市の魅力を高め、当時の私の母親と同じ20代・30代の若者子育て世代が多く転入し定住する市にしていく」ことです。
長くなり、また自己満足の文章となり申し訳ないのですが、ここで書くことで自分自身に対し再度気づきを与えることができると思い書きました。この気持ちを忘れず、2023年も楽しんでいきたいと思います。
現状はどうなのか
3 社会人駆け出し
市役所勤務が決まった時、嬉しい気持ちと同時に少し劣等感がありました。少年時代に憧れていたのは外交官など国家公務員でしたが現実は市役所勤務であり、また周りも地元採用が多く馴染めないと思っていました。しかし、大学から付き合っていた彼女との結婚を考えていた事もあり、「自分が納得できる仕事ができる職場環境に変えるくらい出世しよう」と心に決め取り組むことにしました。
そんな中で配属された最初の職場は区役所の生活保護部署でしたが、それは私の希望していた部署でした。「縁のない場所で働くには、まずは弱者に寄り添い問題点や課題を見つけた方が良い」と思い選んだ職場は私に馴染み、また生活相談に来る方々が持つ悩みや不安などが他人事に思えず、自分が経験してきたものに近いものであったことから、本気で彼らが満足できる生活に戻れるよう支援してました。またプライベートでも結婚し子どもが産まれ、「父親として立派になろう」という想いが、仕事への熱意となっていました。
ある程度経験を積んだ3年目の時、家庭訪問する度に聞かされていた市政への不満を何度も聞きながら、「それなら何故この市に住み続けているのか、何が魅力なんだろう」と思うようになりました。次の部署は、そんな疑問が解決するような部署がいいと思っていた時、東京2020大会で市が会場になることが決まりました。「東京2020大会で注目されれば、さらにこの市に魅力が出るのではないか、そしてその経験が私自身にもこの市への魅力に気づくのではないか」と考え、4年目で配属されたのは本庁の観光振興部署でした。
4 器用貧乏ではない
初めての本庁勤務は異文化でした。また観光振興なので東京2020大会で成功することを求められていました。若手は私と新人だけ、係長級が6人もいるここが正に私のその後を決めるターニングポイントでした。器用貧乏と自覚していた私は、与えられる仕事は卒なくこなし、だんだん「課内で一番嫌われている難しい事業を改善したい」という欲が出始めました。その事業と紐つく政策は市でも最重要かつ最難関な仕事であり、代々係長級4人で取り組んでいることは、後になって知りました。その仕事に主担当となり、自分が思うがままに様々な事業を立案しましたが、徐々に一人で取り組むことがしんどくなり、残業と休日返上の仕事で精神的に追い込まれてきました。
そんな時、隣の係長級職員が「私をこの難関な仕事の主担当としたのは、係長が私に期待して課長に進言したからだ」と聞きました。ふと思うと、係長は私の思いつきの事業を一度も否定せず、むしろ応援してくれる形で関係部署や外部とのつながりを作ってくれる人でした。私が一人夜遅くまで仕事をしていた時には一緒に残ってくれて、終電を逃しそうな私を車で最寄り駅まで送ってくれる事もありました。
思い返すと、私は器用貧乏ではなく周囲のサポートがあって自分を出せていたのだと気づきました。初めての部署でも指導してくれた先輩職員や上司が、私のやり方を認めてくれ、内部研修の講師に推薦してくれるなど自信をつけさせてくれました。公務員試験の時も、友人や今は妻である彼女、また家族はいつも私が勉強に打ち込めるようサポートしてくれていました。「私は器用貧乏ではない、私はただいつも周りに支えてもらえる恵まれた人間なだけだ」と気づいた時には、仕事への姿勢がガラッと変わりました。
最後、未来に向けた抱負へ続く...
過去の振り返り
明けましておめでとうございます。
なかなかブログ作成は習慣化できないですね。ネタは考えつくのですが、途中まで作成した下書きばかりが溜まっていってしまい、次に見るときには「何を書こうと思っていたんだっけ」という始末...頑張ります!
そんな私の状況を整理すると、今日の今日まで子ども達と遊び、すっかり大学院での論文作成を忘れておりました。まだ正月ボケは治っていませんが、気持ちを切り替えようと思います。
しかしながら、子どもと触れ合い家族と一緒に過ごす時間が多いと、自然と自分を客観視してました。2023年の初投稿なので、雑な文章となりそうですが、少し自分を見つめ直してみようと思います。
1 少年期
一言で言うと、私は昔から「器用貧乏」でした。この言葉は大学時代に所属していたゼミの先生に言われた言葉でもあります。幼少期から何かに秀でたものは無くとも、何でもない人並み以上にはできることが多くありました。
幼稚園から始めた水泳は選手コースまで上達し地元の水泳大会では入賞するもJOCまでは行けず、小学校から始めたサッカーでは2つのクラブに所属し副キャプテンまで努めるけど地域の選抜チームには選ばれないなど、今思うと「あと少し頑張れば」ができない性分でした。
勉強も誰に教わることもなく、授業を聞いて家で復習していれば、テストは高得点が取れるほどでした。小学校高学年ではECCに入り、英語検定も3級まで受験し合格するなど、スポーツと比べれば勉強の方に才があったのかもしれません。その頃には将来の夢があり、読書感想文で読んだ杉原千畝さんに憧れ、「公務員」への興味がありました。
中学校は父親の仕事の都合で大阪から東京へ転校し、転校先では水泳ではなくサッカーがしたく、部が無かったので友達と一緒に創設しました。その頃にはサッカーは友達との思い出作りのようにして、高校受験に励んでいました。初めての塾では入塾テストの成績が良く、いきなり特進クラスに入りました。そのクラスでは「早慶は滑り止め」精神で授業レベルが高く、また定期的に行う特進テストで成績の悪い生徒を下のクラスに落とす”ふるい”にかけられ、私は何度も行き来を繰り返していました。しかし、だんだん頑張ることを諦め、下のクラスでそれなりに勉強するようになり、受験も早慶どころかその下の親に勧められたMARCH付属校に入学しました。
2 青年期
高校は辛いものでした。何も考えず入ったサッカー部では周りのレベルについて行けず、同級生からいじめに遭うなど大変でしたが、数少ない友人からの助けもあり、また相変わらず勉強の要領がよく成績良を維持しました。そんな中、大学への内部進学の内定を貰いながら国立大学へ挑戦する権利を高校にもらい、大学受験の勉強を自己流でしましたが、そこでも私の「逃げ道があるから良いや」と言う悪い癖が出て、センター試験もパッとせず、入学試験も不合格となりました。
大学へ内部進学する学部は、私が目指していた「公務員」に近い政治経済学部又は法学部にと考えていましたが、高校の先生から「大学で新しく開設した英語系学部に進学して底上げをして欲しい」と打診され、その学部に進みました。
大学ではほとんど勉強せず、興味のある授業だけ受けていました。将来が不安になり「教職課程」も受けていましたが、そこまで学校の先生になりたい訳でもなく、教育実習日は公務員試験と重なったため辞退してしまい、また公務員試験も中途半端な勉強だったので国家も地方も散々でした。
今まではそんな生活でも何とかなっていましたが、いよいよどうしようもない「就活」が迫っていました。民間もいくつか受けましたが、最終面接で「公務員になりたい」など意味のわからない事を何度も言ってしまい、全て不採用のまま卒業を迎えました。その頃にやっと危機感が芽生え、周りに置いてかれる焦燥感に駆られました。何でも卒なくこなし周りを置いてきていた自分が、社会人という壁で立ち止まり周りに置いてかれることに強烈な劣等感を抱きました。そこで自分をもう一度見つめ直し、「公務員試験をもう一度頑張ってみよう」と、同じく公務員試験に再チャレンジする友人と一緒に一念発起で取り組みました。周りは社会人として給料をもらっているので、自分も早朝バイトや派遣バイトなどをしながら勉強しましたが、やはり国家は難しく手が届きませんでした。当時国家の内定を既にもらっていた友人と地方の試験を受ける際、後がない私に友人が勧めたのが今私が働く政令指定都市でした。試験は手応えありませんでしたがご縁があり、無事に合格通知を受けっとった日には、父も母も泣いて喜びました。
現状に続きます...
日本の起業精神について
1 鶴岡サイエンスパーク
皆さんは、「鶴岡サイエンスパーク」をご存知でしょうか。場所は山形県鶴岡市にあり、あの慶應義塾大学が創設した先端科学イノベーション施設です。この施設は首相官邸広報でも紹介され、今は多くの若く有能な世代が世界中から集まり、多くのベンチャー企業がこの施設で誕生しています。
何が人々を惹きつけるのか。この施設創設を主導した冨田さんの講演を聞くとそれが分かり、また私に足りないマインドを得ることができました。
2 人々を惹きつける魅力
鶴岡サイエンスパーク周辺は田んぼに覆われており、何か施設が浮いて見えるのが第一印象でした。しかし、思い返すと他の先進国は商業は都市部に集中し、研究施設は郊外の自然豊かな場所にあり、都市部のビル群の中に狭い研究施設を置くような都市は日本くらいな気もします。そのサイエンスパークは最初は小規模ながらも、大学だけではなく国や山形県、そして鶴岡市が投資することで徐々に拡大し、多くのベンチャー企業を誕生させるほどに成長しました。
人口の1%に匹敵するほどの研究者が集まり、彼らの研究により、唾液でがん検査を行うものや、蜘蛛の糸の技術を応用し、丈夫で伸縮性のある繊維を作るなどといったことを可能としてきました。
そんなサイエンスパークのコンセプトは、「未来を見ていく」ことにあるそうです。彼らの取組は単にお金を稼ぐことではなく、最先端技術の社会実装と持続可能性を創出していくことにあります。そのことが、例えば鶴岡市内の高等学校と連携したインターンシップなどの地域貢献にも表れています。
3 重要なマインドセット
鶴岡市は消滅可能性都市でした。基幹産業は農業であり、市や今までハコモノなどの整備をしながら生きながらえてきていました。そのような中、当時の市長が「このままではいずれ鶴岡市は本当に消滅してしまう」と危機感を露わにし、今から種をまいて産業を作っていくべくイノベーションへの投資を推進しました。
その期待に応え、鶴岡サイエンスパークは投資家やお金を生み出すことに注力するのではなく、日本や世界のために貢献することが地元貢献にもつながる考えの元、多くのベンチャー企業を創出し、また優秀な人材を育てることで、更に世界中から優秀な人材が集まってくる好循環を形成しました。冨田さんは、「日本のベンチャー企業支援はやりすぎている。数値目標を設定しすぎて本質が見えていない。補助金精神があると企業や人はそこに依存して成長しない。」とも話していました。重要なのは前向きに取り組む企業や人材を育てることにあるとのことです。
冨田さんと同じようなことはできずとも、その精神は倣うことができるはずです。自分自身のマインドセットに良いきっかけを与えてくれる講演でした。
家庭持ち31歳の「人付き合い」について
1 社会人になること
大学生までは男女問わず友人と会い、くだらないことから将来の真面目な話までする時間が有意義で、ついつい時間を忘れて話し込み終電で自宅に帰ることも多々ありました。社会人となった直後も、可能な限り友人と休みを合わせ、会社の雰囲気や今の仕事について情報交換することが楽しく、また会社の同期とも仲良く過ごしていました。
そのような中、彼女と婚約し同居するようになると、休みの日は彼女と過ごすことが貴重になってきました。友人や同期と会うことは少なくなり、また自然と「彼女との時間を削ってまで会うほどか?」など、会う頻度と会う相手によって、その価値を自分に自然に問うようになってきました。結婚してからは、よりその考えが顕著になり、また妻も友人付き合いが多くない方なので、平日は朝と夜で顔を合わせる程度なので休日にしっかり二人の時間を過ごしたいと感じることで、友人や同期と会うことは半年に1回程度で十分でした。
2 家庭を持つこと
私は23歳で結婚し、25歳で長女が誕生しているので、周りの同年代と比較して結婚も家庭持ちも早かったかと思います。少ない友人付き合いでも、共通の話題が探し辛く、また友人たちも「子ども持ってどう?」や「パパは何をしてるの?」など子どもやパパの話題を振ってくれることが逆に気を遣わせているように感じ、そんな彼らに自分も気を遣ってしまい疲れてしまうので、更に付き合いは減ってしまいました。
妻もその点は同じらしく、どうしても「子どもの写真を見たい」や「ママは大変か?」などといった話題になるそうです。結論、夫婦や兄弟、また本当に親密な友人などと過ごしていた方が、自分がパパやママではなく自然体でいられることに気づき、そんな発見によって、友人との付き合いが自分と向き合える貴重な機会であることに気づき始めました。
3 学生と社会人そして親であること
社会人8年目で大学院へ派遣されることになり、私の肩書きに「学生」という言葉が付きました。大学院では同世代が多く、そんな彼らと話していると、昔ほど気負いせずに付き合えている気がしました。それもそのはずで、この年代になるとパパやママ世代がマジョリティになり、プライベートな話題も子どもや家族サービスの話になります。
また、ワークライフバランスを保ちながら、どのように仕事に取組むかといった悩みまで共有することができ、学生同士の交流は大変充実しています。その充実感から、今度は「もっと充実した話がしたい」や「交流の幅を無理せず広げていければ」なんて欲も出てくるようになりました。
もちろん、「家族と過ごす時間を割いてまで過ごす必要性があるか」といった判断機運は今も残っています。ただ、昔は友人との付き合いに疲れ、会う機会を減らすための言い訳のように使っていたネガティブな基準でしたが、今は純粋に「自分のために得たい時間か否か」といった、ポジティブな基準となりました。
皆さんにとって”友人”とはどのような存在でしょうか。年数を経て友人相手や話す内容が違えど、私にとってそれは究極「本当の自分らしくいられる相手」であると実感しています。そして、それはかけがえのない大切な存在であり、そんな友人に自分もなり大切な友人にかけがえのない時間を与えたいと思っています。
子どもたちが日々保育園で、「〇〇くんと遊んだ」や「〇〇ちゃんとこんな話をした」と私に聞かせてくれます。そんな子どもたちの話を純粋に楽しみながらも、「子どもたちにとって友人はどんな存在なのだろうか」と考えることが今の私の幸せです。
【第12回】マクロ経済学(開放経済)
今までは閉鎖経済において短期と長期に市場を分けて整理してきました。しかし、現実世界は他国との貿易があり、経済に大きく影響を与えています。今回は開放経済の中で、長期と短期がどのようになるのか整理したいと思います。
1 閉鎖経済から開放経済(長期)
・閉鎖経済の場合
生産と支出が一致(Y=C+I+G)
貯蓄(S)と投資(I)が一致(I(r)=YーCーG=S)するよう利子率が決定
・開放経済の場合
→生産と支出が一致するとは限らない
Y=C+I+G+NX(=X-M)
→貯蓄(S)と投資(I)が一致するとは限らない
NX=(YーCーG)-I=S-I
・仮定:小国開放経済と完全に自由な資本移動
①国内債券と外国債券が完全代替
②完全な資本移動性:資産の国際取引に制限がない
③小国:世界利子率(r*)に影響を与えることはできない
r*は外国(大国)のISバランス等によって決定
※r*は外生変数、「r=r*」となるまで資本が調整
・小国開放経済モデルの体系
→生産 Y=f(K,L)
→消費 C=C(Y-T)
→投資 I=I(r)
→貯蓄 S=Y-C-G
→政府支出(G)、租税(T)は一定
→純輸出 NX=(Y-C-G)-I=S-I
→利子率 r=r*
・NX=(Y-C-G)-I(r*)=S-I(r*)
貿易収支は世界利子率(に対応する貯蓄と投資の差額)で決まる
※投資(I)は利子率の減少関数
※貯蓄(S)は一定
※閉鎖経済であれば、S=Iとなる水準で利子率が決定
※小国開放経済では、r=r*
※投資はI(r*)で決定
・当初経済は貿易収支均衡(NX=0、I=S)の状態にあったものとする
政府が支出(G)を増加させる
→Sが減少し、貯蓄曲線は左シフト
利子率がr*なので、投資は不変
→S<IなのでNX<0、つまり貿易赤字が生じる
・外国(大国)の財政政策の効果
外国が財政支出を増加させる
→世界経済全体の貯蓄が減少し、世界利子率(r*)が上昇
投資は減少、一方で貯蓄は不変
→S>IなのでNX>0、つまり貿易黒字が生じる
・投資需要変化の効果
投資税制の変更などにより企業の投資意欲が増大すると
→投資曲線が右シフト(世界利子率は不変)
投資はI(r*)へ増加、一方で貯蓄は不変
→S<IなのでNX<0、つまり貿易赤字が生じる
・貿易赤字は悪か
→貿易赤字の要因(S<I)は、途上国ではあり得る(投資資金を海外から借入)
→マネーサプライ(M)が増えることは、それだけ消費も増える
=内需が増加しYが増えることが多いので、悪とは言い切れない
2 為替レート
・名目為替レート(e):異なる通貨の相対価格
・実質為替レート(ε):異なる国の財の相対価格
(ある財の海外製品価格と自国製品価格の相対価格)
例)ある車が、米国:2.5万ドル 日本:400万円で販売
名目為替レートが”1ドル80円”の場合
→米国の2.5万ドル=2000万円
→実質為替レート(ε)=米国の価格/日本の価格=0.5
(日本の車1台の値段は、米国の車2台分の価値)
・実質為替レート(ε)=名目為替レート(e)×外国の物価水準/自国の物価水準
→実質為替レートが高い:自国製品は輸出競争力がある
→実質為替レートが低い:自国製品は輸出競争力が弱い
・純輸出と実質為替レート
実質為替レート(ε)が高くなる=自国製品が安くなり純輸出が増加
→純輸出(N X)は実質為替レート(ε)の増加関数
NX=0、S-I=0 の水準で実質為替レートが決定
・政府支出(G)が増加するとSが減少
→S-I曲線が左シフト、実質為替レート(ε)低下、純輸出(NX)減少
・外国が財政支出を増加させると、世界利子率(r*)が上昇
国内利子率が上昇(r=r*)、貯蓄は不変
→S-I曲線が右シフト、実質為替レート(ε)上昇、純輸出(N X)増加
・投資需要変化の効果
投資税制の変更などにより企業の投資意欲が増大すると投資増加するが貯蓄は不変
→S-I曲線が左シフト、実質為替レート(ε)低下、純輸出(NX)減少
・保護貿易政策の効果
保護貿易政策によりマネーサプライ(M)減少し、NX(ε)曲線が右シフト
→実質為替レート(ε)低下、純輸出(NX)不変、貿易量は減少
※「NX=X-M」が不変のため、Xも減少
・名目為替レートは実質為替レートと両国の物価水準に依存
→インフレ率が高い国ほど名目為替レートが上昇
(二国間通貨の名目為替レート=実質為替レート変化率-両国のインフレ率)
・金融政策と名目為替レート
マネーサプライ(M)増加により、インフレ率(π)が他国と比べ上昇
(名目為替レート(e)変化率=実質為替レート(ε)変化率+(π-π*))
→名目為替レート上昇、自国通貨が減価
※長期では貨幣数量説(MV=PY)でMが増えるとVとYが一定ならPが増える
Pが増えるということは、インフレ率(π)も上昇
・変動相場制と固定相場制
【固定相場制のメリット】
・為替レートの不確実性を避け、国際的な取引を容易化
・金融政策の自己抑制を課しマネーサプライの過度の増大回避に資する
【変動相場制のメリット】
・金融政策の自由度を高め、為替以外の政策目標を追求可能
→現実では両者の区別はない
(固定相場制でも難しければ目標変更、変動相場制でも目標設定する)
「自由な資本移動」「独立した金融政策」「固定相場制」は全て同時実現できない
3 閉鎖経済から開放経済へ(短期)
・マンデル=フレミング・モデル
長期の場合と同様に、小国開放経済の仮定(r=r*)
短期のため、物価水準及び期待インフレ率は固定
→IS曲線とLM曲線をベースに、Yと名目為替レート(e)の関係を考える
※ISーLM曲線はYとrの関係
・財市場とIS曲線
名目為替レート(e)が上昇すると、NXが上昇し所得(Y)が増加
計画支出(P E)=C+I+G+NX(e)情報シフト、IS曲線は右上がりとなる
・貨幣市場とLM曲線
貨幣市場の均衡(M/P=L(r*,Y))
r*は一定(M、Pも)、Yは為替レートに依存しないため、LM曲線は垂直
・短期均衡:IS曲線とLM曲線の交点でYとeが決定
IS曲線 Y=C(Y-T)+I(r*)+G+NX(e)
LM曲線 M/P=L(r*,Y)
→交点は所与のG、T、M、P、r*の元、IS~LMモデル均衡組合せ(Y,e)を示す
・変動為替相場制における財政政策の効果
政府支出(G)を増やすと、IS曲線は右シフト
→LM曲線は変化しないため、為替レート(e)下落、所得Y不変
→資本移動が完全な小国開放経済の場合、財政政策は実質GDPに無効
為替レートの上昇をもたらし、純輸出を減少させるなど効果をオフセット
・変動為替相場制における金融政策の効果
マネーサプライを増やすとLM曲線は右シフト
→IS曲線は変化しないため、為替レート(e)上昇、所得Y増加
→金融政策は利子率は一定だが為替レートと純輸出の変化を通じ実質GDPに有効
輸入制限を行うと、NX増加しIS曲線は右シフト
→LM曲線はシフトしないため、為替レート(e)下落、所得Y不変
(純輸出は不変)
→輸入制限しても純輸出は不変だが、貿易量は減少(輸出入が減少)
・固定為替相場制における小国開放経済
為替レートを固定するために、中央銀行は貨幣供給量(M)管理しLM曲線を動かす
・固定為替相場制における財政政策の効果
政府支出(G)を増やすと、IS曲線についてYが増え右シフト
→eは下がる圧力が働くため、中央銀行がMを供給すべくLM曲線が右シフト
→為替レート(e)不変、所得(Y)増加
・固定為替相場制における金融政策の効果
Mを増やすとLM曲線についてYが増え右シフト
→eが上がる圧力が働くため、中央銀行はMを減らすべくLM曲線が左シフト
→為替レート(e)不変、所得(Y)不変
輸入制限で為替レート(e)が下がる
→eが一定になるよう中央銀行はMを増やすべくLM曲線が右シフト
→為替レート(e)不変、所得(Y)増加、純輸出増加
以上で、大凡のマクロ経済学を整理してきましたが、まだまだ実感を持って理解できている部分は少ないなと思いました。ですが、知っている中で社会経済を見るのと、知らずに社会経済を見るのとでは大きく違います。ニュースで聞く金融政策や財政政策も、今後は「やっぱりそうなるよな」と思えると実感しています。
また機会があれば、今度はミクロ経済学を整理しようと思っていますので、よろしくお願いいたします。